Happy Passover

Chag Sameach♥
Happy Passover♥


今日の夕方から過越しの祭りが始まります。
過越しの祭りの期間は、イースト菌をすべて取り除き、種なしパンを食します。
過ぎ越しの食卓に欠かせないのが「セデル・プレート」つまり、セデル皿です。セデルは「順序」という意味です。そしてこのお皿はいくつかに仕切られていて、それぞれの部分に、過越しの祭りに使う象徴的な食品が準備されています。
まず、一つ目はパセリ。ヘブライ語では「カルパス」と言います。過ぎ越しの祭りは春に当たり、春には新しいものが生まれます。パセリは人生を意味します。このパセリを塩水に二度、浸します。この塩水は涙を指します。これでエジプトの人生は涙に満たされていたことを思い出すのです。また、紅海を渡ったことを思い出すためでもあります。そして、パセリを食べます。これは、ユダヤ人がエジプトで小羊の血に浸したヒソプで家の入口のかもいに血をつけたという意味もあります。
次に苦菜があります。ヘブライ語では「マロアー」です。普通は、タマネギや大根、西洋ワサビなどを使います。これはエジプトでの生活は苦しかった、という意味です。苦菜をマッツォにつけて食べることにより、この世の人生には苦しみがあることを思うのです。
次に皿の上にあるのは、ヘブライ語で「ハロセット」と呼ばれるものです。これは、リンゴ、シナモン、ナッツ、ワインを泥のように混ぜ合わせたものです。エジプトでは泥と、わらを混ぜて、パロのためにレンガを作りました。この甘い混ぜ物は、レンガと奴隷だったことを意味します。
さらに、セデル・プレートの上には焼いた卵があります。これはエルサレムの神殿で焼かれた犠牲の動物を象徴します。今日、イスラエルへ行っても、ユダヤの祭司が神殿で牛、ヤギ、小羊を犠牲にしているのを見る事はありません。もう廃止されたのです。
動物犠牲をやめたのは、もう神殿が無いからなのです。紀元70年に神殿がローマ帝国に破壊され、もう犠牲を行う場所が無いのです。ですから、過ぎ越しの祭を祝う人は焼いた卵を少しもらって、それを塩水に浸して食べます。神に犠牲を持って行けないことが悲しい、ということを意味しているのです。
セデル・プレートの上には、最後に小羊のすねの骨があります。この骨は、神が小羊を用いてユダヤ人をエジプトから贖い出したことを意味します。
イスラエルの人々がヨセフの時代にエジプトに行きました。ヨセフのおかげでエジプトは大変な飢饉から救われましたが、何年もたつとユダヤ人たちはパロの奴隷となりました。モーセはユダヤ人を開放するようパロに頼みましたが、パロの心は頑なになり、モーセの言うことを聞き入れませんでした。そこで神は、エジプトに十の災いを起こし、最後の災いは最も大変なものでした。動物も人間も初子が死んだのです。その夜、初子が生き残れる方法はひとつしかありませんでした。
神は人々に傷のない小羊をとって殺し、その血を鉢に注ぐようにと言われました。そしてヒソプを取り、血に浸し、家の入口の両側の柱と鴨居の上にその血をつけなければならなかったのです。主はモーセとアロンに告げて言われ、「私はその血を見てあなた方のところを過ぎ越すだろう」と言われたのです。
その最初の過ぎ越しの夜、神はエジプトに行かれたので、あちこちの家で初子が死にました。神の約束通り、信仰によって家の入り口に血をつけた家を神は過ぎ越され、その家には死がありませんでした。翌朝、イスラエルの民は全員、罪と死の象徴であるエジプトから脱出できたのです。そして、イスラエルの民は神と共に荒野を歩き始めました。荒野はこの世を意味します。この世の中での生活は、ある意味で荒野のようではないでしょうか。そしてイスラエルの民の目的地、つまり約束の地、乳と蜜の流れる地とエルサレムは、最後の目的地である天国と、新しいエルサレムを象徴するものです。神が何千年も前にすばらしい「青写真」を描いておられたのがおわかりでしょうか。それは最もすばらしい小羊、最もすばらしい過ぎ越しの祭り、そして最もすばらしい脱出です。これは皆、神の「ひとり子」を通してのご計画でした。
過ぎ越しの祭りは預言でした。主がこの世にイエス様を送られ、イエス様はエルサレムで十字架にかかり死なれます。そして、私たちがイエス様の十字架の血潮を私たちの心の魂の入り口かもいにつけるとき、過ぎ越され、永遠の死と、エジプトの奴隷制度の束縛のような罪から救われ、神と一緒に歩み始めることができるのです。
過ぎ越しの祭りはメシアの死の預言でした。そしてイエスは実際に過ぎ越しの祭りの日に死なれました。それは預言が成就するためでした。最後の晩餐は過ぎ越しの祭りの食事であり、その翌日、つまり過ぎ越しの祭りの初めの日ニサンの月の14日にイエス様は死なれたのでした。
■アフィコーメン
さて、食事が終わった後、ユダヤ人たちは非常に興味深い行事を行います。子供たちが、隠されたマッツォの半分を探すのです。さきほど、真ん中の種無しパン、マッツォを割り、それを布に包んで隠すのを、覚えてますか。傷があって、穴があき、砕かれ、布に巻かれて隠されたパンです。子供たちはそれを探し、見つけ、隠れた場所から出して、お父さんに渡します。私たちから見ると、これはまるでイエスの復活のようではありませんか。お父さんは見つけた子供におこづかいを報酬として渡します。これもイエスの死、埋葬、復活、そして神から与えられる報酬を思い起こさせます。隠された命のパンを見つけた人には、主なる神からいのちのパン、永遠のいのちという報酬が与えられるのです。
こうして探し出すマッツォを「アフィコーメン」と言います。みつけたマッツォを包みから出し、小さく割ってみんなで食べます。これは「苦悩のパン」と呼ばれ、一般のユダヤ人の伝統では、エジプトから出る時にパンを発酵させる時間がなかったことを思い出すのです。イエスが最後の晩餐の過ぎ越しの食事で、パンをとり、割かれたことはご存じだと思います。そのパンは、この種無しパン、マッツォだったのです。感謝をささげた後、イエスはそのパンを割って、弟子達にお与えになりました。その時、イエスはこのパンに新しい意味をお与えになりました。
ルカ 22:19 「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行ないなさい。」
■エリヤの杯
さて、過ぎ越しの祭りを祝うときは、テーブルの上に、参加者の人数より一つ多いグラスを準備するのがユダヤの伝統です。時には、杯だけでなく、席も準備します。これは「エリヤの杯」「エリヤの席」と呼ばれます。エリヤは死ななかったので、神が彼をイスラエルに送って、メシアが来る準備をさせるという思想があります。ですから、ユダヤ人は過ぎ越しの祭りのお客様として、エリヤに来て欲しいので、彼のために杯や席を用意するのです。
新約聖書は、エリヤの代わりにメシアを迎える準備をさせるために現れたのが、バプテスマのヨハネでした。彼はヨルダン川でユダヤ人のバプテスマを行っていました。ある日、イエスが来ているのを見て、彼はこう言いました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」神のご計画では、私達を贖うものは、最初から小羊でした。しかしイエスはもっともっと素晴らしい小羊でした。罪のない神の御子だったのです。ですから、イエスによる贖いは、もっと素晴らしい贖いでした。今度はイスラエルだけではなく、イスラエルに始まって、この世のすべての民族に贖いが及びました。さらに、肉体の贖いだけではなく、今度は罪と死、そして闇の力からの贖いでした。そして、エジプトのユダヤ人たちが信仰により、傷のない小羊の血を入口の柱につけたのと同じように、現在の私たち一人一人もまた、神の小羊の血である、イエス・キリストの十字架の血潮を取り、家の入口ではなく、私たちの心と魂の入口につけなくてはならないのです。ですから、その意味で、誰もが過ぎ越しの祭りを必要としているのです。この過ぎ越しの祭りで、神の小羊が私たちにその血を与え、私たちの命を罪から清めてくださるのです。

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Posted by eli