✡テレジンの絵は語り続ける✡

2023年1月18日

✡テレジンの絵は語り続ける✡
9月8日から16日まで川越市立美術館 市民ギャラリーにて開催中の「テレジン収容所の幼い画家たち展」に行ってきました。
「テレジン もう蝶々はいない」歌と語りのコンサートも行ってきました。
野村路子さんが、1989年にプラハの街で偶然に、テレジン強制収容所で描いた子どもたちの絵と出会った日から30年以上が経ちます。
野村路子さんとの出会い、テレジン収容所の幼い画家たちとの出会いに神様の摂理を覚え、心から感謝致します。
1989年、野村路子さんは、チェコのプラハにあるテレジン強制収容所を訪れ、ユダヤ博物館でテレジン強制収容所の子どもたちが描いた絵と出会いました。
1990年11月、野村路子さんは、イスラエルのキブツ・ギバット・ハイムにある「テレジンの家」を訪問し、テレジン収容所からの生還者であるビリー・グロアーさんとアリサ・シラーさん、ディタ・ポラホヴァーさんと出会い、その後、「15000人のアンネ・フランク~テレジン収容所に残された4000枚の絵~」を出版。「テレジンの小さな画家たち」展を開催。テレビ番組でも取り上げられるようになりました。
私が、イスラエルのキブツ・マーニットに滞在し、ビリー・グロアーさんと初めて出会ったのは、1990年3月のことでした。キブツ・ギバットハイムの「テレジンの家」も訪問し、アリサ・シラーさんとも出会いました。今から30年以上前になります。
1942年、ビリー・グロアーさんは、28歳の時にテレジン収容所に送られました。
テレジンには、哲学者や文学者、音楽家、画家など国内外に知られたユダヤ人が大勢いました。“テレジン収容所では、ユダヤ人は恵まれた環境の中で安穏に暮らしています。”と、偽りのPRプロパガンダをナチスが指示していました。ヒットラーの“最終計画”が完遂するまで、できる限り平穏に、無事に抵抗や反乱をおさえて収容所を存続させねばならなかったのです。
そのためには、画家や音楽家たちを、協議会の主要メンバーにして、収容所の治安を守るために、絵や演奏を外部に向けての偽りの証言として役立てる必要があったのです。
ビリー・グロアーさんは、テレジンでは“女の子の家”で子どもたちの世話係をしていました。チェコ国内から収容された子どもは、全部で1万5000人。解放の日を迎えて生き残った子どもは、100人。
孤独、飢え、疲れ、辛い日々の中で、毎日、大勢の人が“東(アウシュビッツ)へ”送られて二度と戻ることはなかったのです。
「なんとかして子どもたちに、子どもらしい時間を持たせてあげたい。」と、人間としての尊厳を守り続けさせたいと願いました。
そこで、一日の激しい労働で疲れていたけれど、ドイツ兵に内緒で子どもたちに絵を描かせました。もしドイツ兵に見つかれば罰せられるので、見つからないように、何もないところから、必死で紙もクレヨンも集めました。
折れたクレヨン、残り少ない絵の具、使い古しの筆、切れ端の紙。・・・
画家のフリードル・ディッカーは、子どもの持っている想像力を生かそうと懸命に絵を教えました。心が自由になれば、元来持っている想像力が動き始めます。それぞれの子どもの個性を伸ばし、その子に合った絵を自由に描けるようにしてあげるというのが彼女の考え方でした。
テレジンが解放され、ビリー・グロアーさんは、子どもたちが描いた絵4000枚を大きなトランク2つに入れて、プラハのユダヤ人協会に届け、預けました。
子どもたちの絵は、子どもたちが生きた証しとメッセージです。
テレジンの子どもたちの絵が、この日本でも野村路子さんによって、本や展覧会、小6の国語の教科書にも取り上げられ、テレビでも紹介され語り続けられているのです。
30年間も信念をもって、活動を続け、励んでおられる姿に心から敬意を表します。
戦争の悲惨さだけではなく、悲惨な時代の中で生きた子どもたちの《生きる力》にふれ、悲惨な境遇の中でも、子どもたちの笑顔を守り続けた大人たちの姿勢を知っていただきと切に願います。
今、コロナという試練の中にあります。
フリードル・ディッカー先生が子どもたちに生きる希望を持たせようと絵を描かせたように、私もそのように生きる者でありたいと神様に祈ります。

雑感

Posted by eli