古茂江古代ユダヤ遺跡を訪ねて✨

古茂江古代ユダヤ遺跡を訪ねて✨
淡路島に来たかったのは、
淡路島に残るイスラエルの足跡を辿りたかったからです✨
昭和27年の淡路島の騒動
それは、ある男の不可解な急死によって始まった。
その男の名は森重吉氏、淡路島洲本の小路谷(オロダニ)で四州園という旅館を営業していた。彼は、旅館の湯殿を建てようとして整地していたところ、遺跡としか思えないものを掘り出してしまったのだ。その夜、うめき声をあげながら急死した。昭和9年9月、享年47歳であった。遺跡と急死の因果関係はわからないが、さらに、一逮夜の日、室戸台風が襲来し、旅館まで大被害を受けたのである。
近所の人々は、岬神の祟りであると恐れ、その遺跡を埋め戻してしまったのである。
この遺跡が脚光を浴びるのは、昭和27年まで待たなければならなかった。
白山義高氏は、この遺跡がイスラエル人の遺跡であるとの自説を発表し、その話を聞いて、昭和27年10月14日に、再び発掘されることになった。それも米軍に同行していたイスラエルのローゼン大司教や日本イスラエル協会長小林孝一らが立会う大規模なものであった。
【昭和27年10月13日神戸新聞】
その時の新聞記事を以下に転記する。(氏名、月日などの事実の誤りが見られるが、あえて原文そのまま転記した。)
神戸新聞 昭和27年10月13日
日本人にもユダヤ人の血?
淡路で遺跡を発見
内藤博士らが調査
世界の流民といわれるユダヤ人の祖先が大古の日本に渡来したというナゾの学説はこれまでしばしば流布されて来たが、それを裏づける考古学上の確証はなかった
ところがこんど淡路島にその遺跡があると淡路古文化解放協会会長白山義高氏が発表して以来果然学界でも注目するところとなり、外務省嘱託内藤智秀博士らが淡路島におもむき調査、発掘を行なうことになった
一行は元米第八軍専属T・ローゼン大司教、日本イスラエル協会長小林孝一、同理事長鶴見憲、同常務理事横尾守仲の各氏のほか鶴見裕輔氏らで、十三日午後三時洲本着、また内藤博士は十六日着ただちに大掛りな調査に乗り出すが、十四日はまず午前十時から遺跡があるといわれる洲本市郊外菰江海岸旅館四州園(経営者森重吉氏)内で発掘式典を執行、午後は日本イスラエル協会員による座談会夜は洲本市第二小学校で講演会や映画会(イスラエル建国史)などが催され、注目の発掘は十五日午前九時からいよいよ発見者白山氏のクワ入れによって行われる
現場は四州園内の中央部にある突出した平地にあり、すぐ下に大阪湾が開ける景勝の地で、現在は小さな立石がありその下にイスラエル人の遺したとみられる石ヅカが眠っているといわれる、約二十五年前に同旅館の先代重吉氏が湯殿を建てるため整地したところ、地下一メートルくらいのところに一メートル四方にわたって石がV字型に置かれ、天井にはフタがしてあって内部には二寸か三寸ほどの石が入れてあるのを発見したもので、当時の目撃者の一人である森アサさん(70)=洲本市外通六=は「むつかしいことは分らないが、入ったときは石の室の中にまだ小さな石が八個入っていた、しかしどういうわけかその日に元気な重吉さんがポックリ死んでしまったのでたたりがあるというのですぐ埋めてしまったのをはっきり覚えています」と語っている
現在同島で調査している伊勢古事記研究会長武智時三郎氏の話によるとイスラエル人が日本に来たことは間違いなく、とくに①日本民族史上からいって淡路が一番古い土地といわれる、淡路の先住民族はアイヌ人といわれるが、アイヌ人は言語的にいってイスラエル人に通ずる②現場の菰江(コモエ)という地名はヘブライ語では「碑の上の菰」という意味で石ヅカの存在と符号する―などをあげている、発見者の白山氏らは「いまから三千年くらい前にダヴィデ(旧訳聖書に出てくる人物、新訳ではキリストの祖先だという)の縁者とみられるものがある意図をもってここに構造物を置いて行ったのではないか」という推理を導き出しており、こんどの発掘によってそれを実証づけることになったものである
しかし日本の学界ではこれに対し①この推理を否定する材料はいまのところ何もないが、時代考証は伝承によっているので学問的実証とはならない②イスラエル人が日本に渡来したということになると大和民族論を訂正するばかりではなく、国体や皇室にも影響がある―という二点を理由にしてこれまであまり積極的な動きはみせていないが、この発見についての興味と学問的な認識はもっているといわれ、白山氏は「そこに微妙な点があるのでイスラエル協会やアメリカのアインシュタイン博士らユダヤ人の多くが関係しているニューヨーク文化センターの協力によってあくまで純粋な学問的体系を一応立ててみたいと思っている、なお現在イスラエル共和国に照会中の同国内における碑文(古代文字)の解読文を入手すればこの発見はさらに裏づけの要素を深めることになるだろう」と語っている
とまれこの発掘によってイスラエル人の遺跡と確認されるものが発見されれば、日本の有史以前にイスラエル人の一部が淡路に渡って来たということになり一躍世界の興味の的となるとともに、日本の伝説〃神代時代の天孫民族〃なるものがユダヤ人の祖先と同一民族?ということも考えられる。
日ユ同祖論
ここで、日ユ同祖論、つまりイスラエルの失われた十部族が日本にたどり着いたという説について簡単に説明しておく。
紀元前17世紀頃、アブラハムによってメソポタミヤからカナンの地を目指したイスラエルの一族は、ヤコブの時代にエジプトの奴隷となったが、紀元前13世紀頃モーゼによって連れ出され、ダビデ王の時に(紀元前1000年頃)、統一イスラエル国家をつくる。
ソロモン王の下に繁栄したが、王の死後(紀元前930年頃)にサマリアを首都とした北王国イスラエルとエルサレムを首都とした南王国ユダに分裂する。
ヤコブには、ルベン、シメオン、レビ、ユダ、ゼブルン、イッサカル、ダン、ガド、アシェル、ナフタリ、ヨセフ、ベニヤミンの12人の息子がおり、その子孫がイスラエルの十二部族である(後に司祭のレビ族は、領土を持たなかったので、ヨセフ族がエフライム族とマナセ族の二つに分かれた)。
ルベン、シメオン、ゼブルン、イッサカル、ダン、ガド、アシェル、ナフタリ、エフライム、マナセの十部族が属した北王国イスラエルは、紀元前722年にアッシリアによって人々は捕囚され連れさられた。
一方、ユダ、ベニヤミン、レビ族からなる南王国のユダも、紀元前586年にバビロニアに捕囚されたが、アケメネス朝ペルシアによって解放されイスラエルに帰還した。その後、紆余曲折の末、70年にローマ帝国に征服され、離散生活を余儀なくされた。
1948年、南王国のユダの民族によって、現在のイスラエル国が誕生したが、北王国イスラエルの部族は戻らず、どこに行ったかわからなくなってしまった。それが「失われた十部族」である。
現在、旅館「四州園」は、紆余曲折を経て「ホテルニューアワジ別亭 淡路夢泉景」になっている。
遺跡の方は、昭和27年の調査の後、再度、四国剣山顕彰学会の人によって掘り起こされたが、埋め戻され、遺跡の上にレプリカの遺跡が造られた。
そしてその遺跡は、現在も森重吉氏の従兄弟である湊格氏によって、手厚く祀られている。
この遺跡の管理継承者である湊格氏は、『淡路の神秘エル・エロヘ・イスラエル』の復刻などを手がけられ、淡路島の文化や歴史を保存しようとご尽力されている方である。
鹿は、失われたイスラエル十部族の中のナフタリ部族の紋章である。もし、ローゼン師が持ち込んだものではなく、この遺跡から出土したのであれば、ナフタリ部族が日本にたどり着いていた証拠となる。
地元の人に聞いてみても、白山義高が発見した遺跡の情報を得ることはできておらず、当時の資料は、白山義高の死と共に全て焼却されてしまっていて、手かがりも残っていない。
白山は、この遺跡の地図で、イスラエル人が油谷に上陸し、その後淡路島の東南岸を北上し、最後に古茂江の遺跡を造ったということを言いたかったのではないかと考える。
確かに、そこに登場する油谷(ユダニ)、諭鶴羽(ユズルハ)、由良(ユラ)という地名はユダヤを連想させる。
淡路島の南にそびえる諭鶴羽山は、行者達らによって途絶えていた修験道が復興され五大修験場の一つとなっているが、諭鶴羽神社は、伊弉冊尊、速玉男命、事解男命を祀り、元熊野と云われているほど古い神社である。イスラエルの痕跡が残っていても不思議ではないが、残念ながらその痕跡は見つけることはできていない。
オノゴロシマとは、伊耶那岐(イザナギ)と伊耶那美(イザナミ)が、天の沼矛(アメノヌボコ)で海水をかき混ぜたとき、天の沼矛からしたたり落ちてできた島であり、イザナギとイザナミが国生みをする島である。イザナギとイザナミは、天の御柱(アメノミハシラ)を廻り、淡路島から順に国を産んでいくのである。
沼島では、1億年前の地層を見ることができ、上立神岩(カミタテガミイワ)という巨大な天の御柱、近くには、海水をかき混ぜた様子を想像する鳴門の渦潮もある。沼島はオノゴロシマに最もふさわしい場所である。
【沼島 上立神岩】
私は、イスラエルの失われた十部族は、遥かな旅のあと、まず、日本の原点というべき沼島に上陸したのではないかと考える。
そして、対岸の油谷に渡り、淡路島を北上して、遺跡のある古茂江を中心として淡路島に住み着いたのではないだろうか。
白山の調査資料が残っていれば、これらのことを証明できたかもしれないが、重ね重ね残念である。
イスラエルの元駐日大使であるエリ・エリアフ・コーヘン氏がこの神明神社を訪れて、ユダヤ教の神殿との類似性を指摘している。
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